ブレから視えるもの・佐藤秀治展 | a.r.t.

ブレから視えるもの・佐藤秀治展

10月6日(金)からの開催となる「佐藤秀治展~今井美術館における「視る」ことのエンパワーメント 」の作品展示作業を昨日すませた。

作品展示作業と書いたが、正確にはちょっと違う。今回の作品はすべて「現場制作」なので、作家の制作の場に立会うという意味も大きくなる。

作品を現場制作中 作品はいずれも「視る」という行為を問うた3作品で、うち1つのタイトルは 『ブレから、わたし達が想像して「視える」こと』 。

水平線を配置したうえに、長い柄の先につけたクレヨンを使い、トランポリンでジャンプしながら線をひきつづける。結果、ブレた線が対比してあらわれる。

作家は1975年の初めての個展(日本橋・田村画廊)に「私は、ジャンプした」というタイトルで、ジャンプしながら撮影して大きくブレた写真を発表しているが、近年の「9.11」「中越地震」といった自らの表現の立ち位置を大きく揺るがす出来事を経て、ここでは「私は、揺れ続けている」を見せている。

会場内にパネル掲示されている“作家の覚書”を以下転載。


作家自身による覚え書き、「ブレ」について

デジカメの急速な製品開発は、すでに死語だと思っていた「手ブレ」という言葉を蘇らせました。一瞬のことでしたが、どことなく、懐かしく、人間味を感じさせてくれました。しかし、「手ブレ防止機能付き」という言葉で、まもなく世の中から一掃されようとしています。「ブレ」に寄せる人の思いも、過去のゴミ箱に捨てられてしまう運命にあるようです。「ブレ」は実存しながらも、科学優先の近代では、「合理的な便利さ」や「記録の正確さ」などと引換えに、意味ない不要なものとして当然、葬られてきたわけです。ブレのないクリアな視界のみを追究し続けることで、時空の中から、むしろ1秒も存在しない部分を切り取り、それを「記憶の正確さ」「近代の勝利」として位置づけてきたことに、いまさらながら驚かせられます。もはや、「ブレ」は特別に意識しなければ手に入らない、わたしたちが味わうことの出来ないものになってしまったということです。

佐藤秀治展 ・「手ブレ」により、振動(ブレ)身体を通して、自身にのみ認識される。

・他者においては、ブレにより形成された痕跡「乱れた破線」により、確認される。「読み取り」により認識される。

・「ブレ」は「地球上の万物が静止などしていない」という事実を、「視る」ことの相関性により、逆に「視る」ことでもある。

・新潟中越地震のとき、わたしは全身で「ブレ」を感じ、「ブレまい」という打ち消しの意志を発揮していた。



■会期は、10月6日(金)~15日(日)/金・土・日曜・祝日のみの開館。会場は見附市の今井美術館。 【詳細